サムライアクター 辻本一樹


【プロフィール】

名前 辻本一樹(つじもとかずき)
所属 JAEプロモーション
所属期数 16期
誕生日 9月22日
出身地 大阪府
趣味・特技 時代・現代劇殺陣、ホース(馬)スタント、アクション全般


【主な出演作】

◆映画◆
2020年:ワーナー・ブラザース『ドクター・デスの遺産 -BLACK FILE-』(監督 深川栄洋)刑事 役
2018年:GAGA『マンハント ManHunt』(監督 ジョン・ウー)アクションクルー
2016年:松竹『忍者狩り』(監督 千葉誠治)準主役 密通 役
2009年:ジョリー・ロジャー『ハード・リベンジ、ミリー ブラッディバトル』(監督 辻本貴則) 準主演 イッキ 役
2008年:デイズ『斬~KILL』(総監修 押井 守・監督 田原 実 )内『妖刀射程』準主演 イワクラ 役
2009年:エースデュース『真一文字 拳』(監督 増本庄一郎)準主演 パイ・チャン・ティエン 役
2007年:渋谷シネクイント・デイズ『真・女立喰師列伝~荒野の弐挺拳銃 バーボンのミキ』(監督 辻本貴則)フランコ署長 役
2005年:東宝『戦国自衛隊1549』(監督 手塚昌明)谷口二尉 役
2003年:ワーナー・ブラザース『THE LAST SAMURAI』( 監督 エドワード・ズーウィック)スタントライダー

◆TV◆
2020年:WOWOW『連続ドラマW 太陽は動かない-THE ECLIPSE-』出演
2020年:TX『月曜プレミア8 十津川警部の事件簿~危険な資金』(監督 伊藤寿浩)出演
2020年:NTV『沸騰ワード10』時代殺陣講師
2019年:CX『ルパンの娘 1話』護衛 役
2018年:NHK『土曜時代劇 そろばん侍 風の市兵衛 第6話』夏長 役
2018年:CX『絶対零度 未然犯罪潜入捜査』迫田 役

◆舞台◆
2016年:中野スタジオあくとれ『TOP BANANA第2回公演「てめぇ~か!!この野郎」』(脚本・演出 いのりあきら)主役
2015年:ワーサルシアター八幡山劇場『JAE 第13回プロデュース公演 「Family Ties」』(作・演出 西本良治郎)初老の会社員他
2014年:ワーサルシアター八幡山劇場『JAE 第12回プロデュース公演 「熱海殺人事件・売春捜査官」』(演出 西本良治郎)熊田刑事 役
2011年:萬劇場『JAE 第11回プロデュース公演 「Wipe Out-破壊-」』(原案・脚色・演出 西本良治郎)孫衛門 役

詳細な出演履歴はこちら


【インタビュー】

—–JAE所属俳優の中でも屈指の時代殺陣の演者として知られる、辻本一樹さんのインタビューです。
辻本さんと言えば、今でも強く印象に残っているのが、2016年4月9日、新宿文化センターで開催された「JAE”春”プレミアムイベントJump Up!」での「百人斬り」です。今でも語り継がれています。

辻本:途切れることなく斬りかかってくる複数の敵を相手に、17分間動きっぱなしの演目で、合計500手あった立ち回りでした。
当時は確か40歳頃だったと思いますが、我ながら良くやり遂げたなと思います。信じられないですね。
殺陣の手を付けたのは西本副社長なのですが・・・、
「500手付けた俺も凄いけど、それをやり遂げたお前はもっと凄いな!」と、副社長からお褒めの言葉をいただきました。
まさか副社長から褒めていただけるとは夢にも思っていなかったので、ちょっと自慢です。
そんな機会をいただけた事に、もの凄く感謝ですね。
稽古は実質1日だったのですが、京都の現場で培った17年の経験がなければ成しえなかったと思います。

 

—–「百人斬り」という前人未到の演技に臨む前の楽屋の様子などは、いかがでした?
共演者の皆さんからの激励などありましたか?

 

辻本:今まで改めてお話する機会がなかったのですが、当時の楽屋の空気がおかしくて…妙に静かだったんです。
大概、本番前にも関わらず楽屋内は騒がしいのが常なのですが、その日は共演者の皆さんもボソボソと話す感じで。
皆、海千山千の猛者達なので緊張するわけもないので、「妙やな?」と思いました。
そんな中、いよいよ出番になり舞台に向かう前に皆さんに挨拶しました。
「お先です。よろしくお願いします!」と。
すると、返ってきたのは激励の拍手でした!
「がんばってこい!」とか「ぶちかましてこい!」とか、歓声も上がっていました。
もう、赤面するほどびっくりしたのですが、同時に凄く嬉しくて。

楽屋内にいらっしゃった先輩方も、僕の演技内容は聞いてたと思うんです。
「辻が百人斬やるんやて?マヂかいな?」ってな具合に。(笑)
楽屋が静かだったのは、僕に気を遣ってくださっていたのかなぁと。
僕は至極楽天的な性格なので、その応援を「期待してくれてる」と受け取りましたw
仲間はこの百人斬を不可能だとは思ってない。
「辻ならやれるんちゃうか?」と、ならば後一押し、その背中を押してやれと。
なんかそんな風に思えて、あの先輩達が信じてる辻本を・・・、僕も自分自身を信じようと、覚悟を決めて舞台袖に向かいました。
JACから連なるジャパンアクションエンタープライズの看板を、あの時だけは背負わせてもらえたようで、少し誇らしかったです。

演技直前は、とにかく緊張しないように平常心を保つことに集中しました。
緊張すると筋肉が強張り、一息のズレや一足のズレが起きたら総崩れになります。
一瞬の違和感で、残り400手が飛ぶ事だってあり得るのです。
だから緊張するのもやめました。
後にも先にも、自分の意志で緊張をやめられたのは、この百人斬の舞台袖だけです。
人体の不思議ですね。人間、追い詰められたら結構色んな事できるんやなと、翌日思いましたねw
何より嬉しいのはこの百人斬の話を、笑い話として話せる事です。
たまに西本さんとも話すのですが、大変やったとか、無茶苦茶ですわ、とか。実際、尋常ではなかったのですがw
やり遂げられたからこそ出来る会話であって、やっぱりそんな時間が一番のご褒美でしょうね。
「俺の百⼈斬り、やれるものならやってみろ」と、胸を張って⾃慢できる事の1つ、ですかね。(笑)

 

—–他に自慢できる事や、他人から褒められたり賞をいただいた事などありますか?

辻本:以前、※「TAURUS WORLD STUNT AWARDS(世界スタント賞)」という賞をいただきました。
ある日、ジュラルミン製のやたらに大きくて重いケースが手元に届き開けてみたら、「牛の頭で羽の生えた銅像」が入っていて!
知り合いの監督に話したら「スタント業界のアカデミー賞くらい権威のある賞やで!」って、ごっつ興奮してました!(笑)
2003年公開の映画「ラストサムライ」で演じた、ファイヤースタントが評価され受賞しました。
台座には自分の名前の刻印もあり、ちょっと嬉しいですね。
なかなかに迫力のある像なので、ジェラルミンケーズから出してご披露する機会が、ほとんどないですが。

※2011年、レッド・ブル・エナジー・ドリンク社の創立者であるディートリヒ・マテシッツにより設立された賞。
多くの映画作品で、スタントパフォーマーの命懸けのアクションが作品の魅力を高めるために大きく貢献している事から、その功績を称えるべきという目的で設立された。
世界中で公開される映画から、対象者が選考される。
式典やトロフィーにはレッド・ブルのシンボルである牡牛座の赤い牛があしらわれている。

 

—–まだまだ自慢のネタをお持ちのようですね?

 

辻本:両親からもらった、この頑丈な体です!
コイツがホントに頑丈で・・・。
車やバイク、馬にもはねられたり、結構な高さから落とされたり、燃やされたり、引きずられたりしてる割には壊れてないですね。(笑)
ある映画の撮影中にも、ちょっとしたミスがあって馬に轢かれた事もありましたが・・・。
その様子を見ていた仲間が言うには、僕の体の上で馬がタップダンス踊ってて、絶対死んだか、良くても全身グチャグチャやと思ったらしく、何人かで馬に体当たりして助け出してくれたんですが、泣いてる仲間もいる中で僕は無傷で笑ってたりしました。

鎧を着たまま、馬ごと崖から落下した事もあります。
細い山道で並走するカットで馬が足を踏み外し崖を滑り落ちて、5mくらいは落っこちましたね。
背中に地面の感触が無くなったときに「死んだ」と思ったのですが、これも無傷でした。
仕事柄、危険な目に直面することも多いですが、JAEのメンバーとして厳しい訓練をしていたおかげで大きなケガをすることもなく、今も仕事を続けられているのだと思います。
どんなときでも、受け身を取るのです、体が勝手に。しぶとく生き残ってきてます。(笑)

まぁ、現存する16期は、どいつもこいつもしぶといんですけどね。
考えてみたらデビュー30年ですからね。先輩達に至ってはもっと長いわけです。
しぶとい同期と化物みたいな先輩と化物予備軍の後輩は、僕の自慢ですね。

 

—–まさに日々の厳しい訓練と、先輩方から受け継がれて進化してきたアクションやスタント技術の賜物ですね。
そしてなにより、ご両親から授かっ丈夫な身体のおかげかと。

ちなみに、小さい頃はどんなお子さんだったのでしょうか?

 

辻本:活発な子供だったと思うけど、泣き虫だったかな。
実家の屋根に登ったり、木登りしたり・・・、「いい加減、降りてきなさい!」とか、お袋からしゅっちゅう言われてましたね。
一方で、母親が僕を幼稚園に迎えに来るのが遅れると、ビービー泣いてました。

TV番組では、「仮面ライダー」「仮面ライダーV3」「快傑ズバット」とか「アクマイザー3」が好きでしたね。
特に仮面ライダーが前宙するのが、もうカッコよくて、練習しました。
「桃太郎侍」とか、堺正章さんの「西遊記」とかも好きでしたね。
特に堺正章さんの孫悟空がやる如意棒のアクションが大好きで、水道管のプラパイプを手に入れた時は嬉しかったですねー。
学校から帰ったら、そのMy如意棒を庭で振り回す、1人寸劇が毎日の日課でした。

 

—–小学生の時に、習い事や熱中したものはありますか?

 

辻本:母から勧められて、習字教室に通ってました。
その成果として書道三段を習得することができて、今の仕事でも役立っています。
お芝居を初体験したのも小学時代ですね。
台詞を覚えて、段どりを覚えて、練習を重ねていくという基本を学びました。
当時は「演じる」事よりも、「人前に立つのが嬉しい。」という思いが強くて、お芝居をしていたと思います。

初めて読んだ漫画は、「リングにかけろ」でした。面白くて、熱中しましたね。
特に主人公・高嶺竜児の必殺技「ブーメランフック」がかっこよくて、なんとか会得しようとフック練習の日々を送ってました。
「憧れのヒーローの技を出来るようになりたい。」って、実に子供らしい発想ですよね。
少女漫画や推理小説も好きでした。
学校の図書館に「シャーロック・ホームズの大冒険」というシリーズがあって、読み漁ってました。

 

—–中学時代は、いかがでしたか?

 

辻本:アニメ全盛の時代で、俺ももれなく「機動戦士ガンダム」にハマりました。
プラモデル作りも、寝食を忘れて没頭してた時期もありました。
漫画も相当読んでいて部屋の壁一面が漫画の本棚でした。
当時、ファミコンが発売されたのは、衝撃的でした!
外で遊ぶことが当たり前だったのに、一気にインドア派(室内でゲーム三昧の日々)になりましたね!

好きだったヒーローは、もう真田広之さんでしょうね。
今も昔もこれからも、ずっと僕のヒーローだと思います。
中学2年の時に「里見八犬伝」って映画があり、その犬江親兵衛って役が鮮烈で・・・。
当時、「里見八犬伝」の特集本が出ていて、脚本が丸ごと掲載されていて、それを丸暗記してました。
湯舟に浸かりながら、その1シーンを諳んじたりするわけです。
当時はまだビデオなんかも普及はされておらず、台本を諳んじる事で何回も脳内で再生していたのだと思います。

 

—–高校時代の思い出を教えてください。

 

辻本:必修クラブって制度があって、クラブ活動とは別に授業枠でクラブ活動みたいな枠がありました。
なぜか軟式テニスを選び、サーブでラケットを10本程折りました。
当時はすでにJAC(現JAE)養成部に通っていたので、練習の成果を望まれない形で発揮してました。(笑)

文化祭で友達とバンドを組む事になり、ドラムにチャレンジしました。
ところが、ありえないほど不器用でリズムを刻めないことが発覚して、ベースに転向しましたが、こちらも全然だめで・・・。
結局ボーカルをやる事になりました。(笑)

あとは高校生にはありがちな、グループでの遊園地デートの思い出かなぁ。
遊園地といえば、ジェットコースターは避けては通れないイベントですよね。
僕にとって目の前のジェットコースターは、急降下するは回転するわで、恐怖の存在でした。
座席に座る僕の表情は強張り、心臓の鼓動は隣の彼女に聞こえるのではないかと思うくらい大きく激しく脈打っていました。
ジェットコースターが走り出すと、隣の彼女をチラ見する余裕もありません!
「ぎゃああああああああ!」
「いやあああああああ!」
コースターが急降下する度に、隣の彼女が叫びます。
ところが、周りのけたたましい声とは相反して、僕の心は湖面のような静けさで、小柄な体に似つかない彼女の叫び声の大きさや、肺活量の多さに感心していました。
僕には、乗る前に感じていた恐怖や期待感といった、一切の感情が無かったのです。
レール上を回転しながら、僕は確信しました。
「あぁ・・・、これより怖い事を普段からJACの練習でやってるんや。」と。
「これを怖いと感じれる平和って、世の中にはあるんやなあ~。」と思いました。
もう遊園地が楽しいと思う事は、金輪際ないかもしれんと思った瞬間でしたね。(笑)

 

—–高校生の時からJACの養成部に通っていたそうですが、どんなきっかで、JACや俳優を目指そうと思ったのでしょうか?

辻本:中学生の時に見た「里見八犬伝(1983年公開)」という映画が、僕の人生を大きく変えました。
それまでは、俳優が仕事であるなんて事を考えた事もなかったのですが、これを仕事としてやってる人達がいるって事を具体的に意識した作品です。
縦横無尽に躍動する真田さんを見て、「あんなに動けたら気持ちよさそう」って思えた事が始まりだったような気がします。
動く・・・そうや、僕も動けるやん。
真田さんみたくは動かれへんけど、手も足もあるし、走れるし、その機能は一緒やん、と。
別世界を凄く身近に感じた瞬間でした。

映画を見て感動して帰宅し、コタツの上に置かれていた新聞を何の気なしに開いたら、真田広之さんがいたのです。
14歳の辻本少年は思ったわけです。
こんなタイミングで、JACの広告に出会う・・・これは運命やろう!と。
我ながら単純って言葉で済ませていいとのかと思うくらい単純で短絡的です。
その場で親父に、「俺ここに入りたい!」と脊髄反射の如く言いました。
結果、まだ中学生でしたし、父親からは「高校に行けたら許したる。」って返答でした。
一年待って、高校入学の年に16期としてJACに入りました。
当時はアクション俳優って認識はなく、「アクションもできる俳優」って認識でしたね。
スタントマンって職種も、よく理解はしてなかったと思います。

 

—–養成部に入る前、基礎体力つくりなど、なにか準備されましたか?

 

辻本:せいぜいランニングくらいしか、思いつかなかったような気がします。
ただ一つ、バク転くらいはできんとアカンと思い、友達を引っ張り出して公園の砂場で練習しました。
なのですが、何十回と頭から砂場に突き刺さり、このままでは、JACに⼊る前に死ぬと思ってやめましたね。

 

—–養成部での思い出を教えてください。

 

辻本:入所した日にマットの授業があり、その時のコーチの言葉が今でも忘れられませんね。
これから何が始まるのか不安でしかなかった初日に、コーチは竹刀をもって現れました。
広い肩幅と分厚い胸筋、これ以上ないってくらい引き締まった体つきで開口一番こう言われました。
「俺はお前らを育てようなんて気はない。むしろ落とすためにココにおる!」
安くはない入所金を払った初日がコレかと、愕然としましたが、同時にそれを当然の事のように言える世界に震えましたね。
「そらそうや。」と、誰でもやれる事ではないと。
今まで無自覚で持ってた甘えが吹き飛んだ感じがしました。

マットの授業の最後に「24項目」って補強メニューがあるんですけど、地獄でした。
腿上げとか、逆立ち歩行とか、手押し車とか色々あるんですが、初期の頃は吐いてましたね。
その24項目をコーチは息も乱さずやってのけるわけです。とんでもない世界に飛び込んだと思いました。
夏場、マットの授業が終わってTシャツを絞ると、プールから出てきた時くらいの汗が絞られるんです。
冗談ではなくTシャツが重いのです。

 

—–同期の方々との関係はどうでしたか?

 

辻本:同期は、お兄ちゃんお姉さんでしたね。一番年下だったので。
可愛がってもらってたように思います。
高校の夏休み期間中は、練習終わりで同期のお兄ちゃん家に泊りに行ったりして、修学旅行みたいで楽しかったです。
ライバルとかの認識はなくて、戦友って感じでしょうか?苦楽を共にした仲間って感じです。
負けたくないって意識は当然あって、誰かが新しい技をやったら悔しかったです。
当時の養成部は東京校と大阪校の2つがあって、年に⼀度東京校の同期が⼤阪校の練習に参加するんです。
東京校のトップクラスがくるので、当然上手いんですよ。
で、血気盛んな辻本少年は、覚えたてのドッペルを披露するわけです。前方二回転宙返りですね。
完璧に出来るわけではないのですが、回れるぞと、辻本の名前を覚えて帰れってなもんです。
そして勢いあまって、自分のくるぶしが自分の左目に当たり流血するわけです。
授業の途中で退場する事になり、違う意味で名前を覚えられてしまいました。

 

—–当時の先輩や、講師の方々との思い出はありますか?

 

辻本:先輩は、やっぱり先に歩いてる人なんでしょうね。
大阪の15期は凄い人達の宝庫だったので、その存在感に圧倒されてました。
当時、気安く話せる先輩もいて、夏場の自主練の時に「暑くて気合入りませんわー」とか話してたら、「気合入れたろか?」って言われて、耳がキーンってなるくらいの平手打ちを食らいましたね。
気合というか、芯が入ったような気がしましたね。自分が何をしに来てるのか、その一発で思い出せたような気がしました。
常に自分の前を歩く人がいて、その人を抜かしたと思っても、また前を歩く人がいる。
それはありがたくもあり、悔しくもありという・・・そんなとこでしょうか?

講師陣は、当時の僕らには勿体ないくらいの方達だったのだと思えます。
ダンスの先生は、30年経った今でも現役のダンサーですし、演技の先生は、年配の方なのですが、背筋だけで上体をそらした体勢で発声できるしと、そのジャンルで研鑽を積んできた方たちばかりでした。

 

—–今、自分の養成部時代と、実際に仕事を経験してきて、これから養成部を目指そうとしている人たちに対して、なにかアドバイスや、伝えたい事などありますか?

 

辻本:やれる内にやっとけって事ですかね。
若いうちにやる苦労は貯⾦だと思うんです。 今の時代は特に。
⾃分の可能性を伸ばすのは⾃分でしかなく、その可能性を閉ざすのも⾃分でしかないわけです。
必ず壁にぶち当たります。それがどんな壁かは人それぞれですが、その壁をどのように乗り越えるのかは、それまでの自分が何をやってきたかに尽きると思います。
時間は有限です。

 

—–俳優になるという夢をかなえた時の気持ち、ご家族の反応などいかがでしたか?
また、養成部卒業直後の、初仕事の内容や、当時の自分の仕事ぶりについて教えてください。

 

辻本:母によると、幼稚園卒園の時に僕が書いた将来の夢は、「アカレンジャーになりたい。」だったそうです。
仕事を始めた頃に母がしみじみ言っていたのは、「あんた、幼稚園の時の夢を叶えたんやなあ~。」でした。

初仕事は「激突」って映画でした。当時、19歳ですね。
東映京都での撮影で2週間という約束で行ったのですが、実際はその後17年間お世話になる事になりました。(笑)
右も左も分からずで、毎日殺陣師から怒鳴られて、毎日馬に落とされてました。
カラミもするし、スタントも補助もするし、ワイヤーのセッティングもするしで濃密な現場でしたね。
もう何事にも、体当たりな日々でした。
「わかりません」「出来ません」は通用しないので、必死でしたね。
誰も懇切丁寧になど教えてくれませんから。そんな時間(余裕)は、現場にはないからです。
だからこそ、やり方や技術を先輩方から盗む為に、食い入るように見てましたね。

初めてカメラ前の手をもらった時は、嬉しかったですねえ。
やっと見せ場がまわってきたってなもんです。
斬られて倒れこむ手だったのですが、倒れるまで溜めに溜めるわけです。
本編にも残ってはいるのですが、まぁ、長い!
やりすぎやっ!て当時の自分の頭をはたきたいです。
アクションのリズムや感性など分かるような経験値もなかったので、全身全霊で向かっていってました。

 

—–現在のお仕事の様子について、お聞かせください。

辻本:最近はyoutubeで短編の監督もやったりしますし、アクション監督の代行として現場で殺陣を作る事もあります。
後は講師の仕事です。3年前から、JAEの時代殺陣の講師を担当しています。
東映京都で学んだ技術や知識を後進に伝える事が、僕の使命だと思ってます。
刀を扱える俳優がいなくなれば、時代殺陣自体が出来なくなる可能性があります。
後輩を育てる事は、ライフワークになると思っています。

俳優としては、悪役が好きで楽しいですね。
実生活とはかけ離れた役柄なのもありますが、悪役って大切なのです。
主人公に倒されるわけですから。
悪役が強ければ、それに立ち向かい結果勝利する主人公は、より強く見えるのです。

 

—–俳優というお仕事で、楽しさや充実感を感じる瞬間とは、どんな時なのでしょうか?

 

辻本:楽しく感じるというよりも、楽しかったと思う事の方が多いような気がしてます。
撮影中などは集中していて考える事も多いので、楽しいとか充実してるとか思う隙間がないです。⼤変な事の⽅が多いですしね。
どっかの誰かが、「人間、集中している時間が一番幸せな時間」って言っていました。
だから、撮影や撮影に関連する事に集中してる自分は、楽しいのではなく幸せなのだと思います。

先輩が、「この仕事の得なとこは、しんどい事もくるしい時も、結果、楽しかったと思える時が来る事や。」と言っていました。
例えば、役をもらって台本読み込んで、試行錯誤して、時に演出にボロクソ言われたり、思い悩んで苦しんで、飯も喰えないくらいその芝居の事で頭が一杯で、台詞を飛ばして舞台に立ち尽くす悪夢に苛まれたり。
稽古に汗水たらして、アクションがあるなら何回も何十回も繰り返し、体に沁み込ませるまで動かして、帰ったら洗濯する気力も掃除する余力もなかったり。
そんな状態でも⾃分の芝居に納得できず悶々とした時間が続いていたりと。
そんな苦労をしながらも、舞台の幕が開いてお客さんの拍⼿を 頂けたなら、あーやって良かったと。
そして千秋楽が終わる頃に思うわけです。楽しかったなぁと。
その先輩は最後に「役者って、基本ドMなんやな。」って笑ってました。

 

—–今までのお仕事を振り返って、特に強く思い出に残っているお仕事について教えてください。
映画「ラストサムライ」での撮影秘話なども、ぜひお聞きしたいですね。

辻本:ラストサムライでは、アクション監督自らオーディションに参加していて、東京、大阪、京都などありえない規模のオーディションが行われました。
おそらく、日本のアクション人口の半数は参加してたのではないかと思います。
オーディションに合格し、スタントとして参加した事は貴重な体験でした。
世界水準の撮影現場で、その世界水準に自分が負けていなかった事が自信に繋がりました。
イギリス人No.1のスタントマンに喰ってかかったり、忠告を無視して実演してみたり、稽古初日は喧嘩腰でしたね。(笑)
オーディション合格後も、現場に立つ前に再オーディションがあって、実際に出演するプレイヤーを決めます。
申告制で、やりたいやつが手を挙げて実演、徐々に難易度が上がり出演者を決めます。
ほぼ全てに手を挙げて、その全ての現場にプレイヤーとして参加することができました。
日本での経験しかなかった自分が、世界を相手に通用してる実感というか、今までやってきた事は世界を相手にしても通用するんやって事がわかり、誇らしかったです。

「馬上から槍でトム・クルーズさんに突き込み、その槍先を掴まれて一回転して落馬する。」そんなスタントを、合計5回程やりました。
5回目をやった後にメディック(医療班)が群がってきて、口はこじ開けられるは、目にライトを照らされるは大変やったんですけど、そんな僕の右手を掴んで引っ張る人がいて、そのままテントに案内されました。
そのテントには、E・ズウィック監督とトム・クルーズさんがいて、さっきの馬上スタントのプレビューを見てました。
トム(すみません、尊敬と親愛の情を込めてトムと呼ばせていただきます。)は興奮気味に「グレイト!」と連呼していて、「この次が凄いんだよ、エクセレント!」とまくしたててました。
見たら、落馬して縦に回転してる僕が映っていて「こりゃ死んでるな!」って、自分でも率直に思いました。
笑いながら「サンキュー!」っていう僕をトムがテントから引っ張り出し拍手するもんやから、彼につられて現場中から嵐のような拍手が巻き起こり・・・、あれは快感でしたね。

中村健⼈(JAE15期)さんが見学に来てたので・・・。
僕「どうでした?」
健「おぅ、良かったよ。」
僕「・・・怖かったぁ。」
健「やろうなぁw」
ウチの先輩が笑ってくれてるのにホッとしました。

その⽇の⼣飯時、たまたま同席した⽇本側のキャスティング・プロデューサーから、「トムが凄い褒めてたわよと聞きました。
「彼は凄いタフなスタントマンだよ!」
「馬上からあのスピードで僕に突っ込んできて、5回とも僕が取りやすい位置に、とりやすい強さで槍を突いてくるんだから!」
「そんな事誰も出来ないよ!彼は凄いよ!」って、興奮して話していたそうです。
僕は逆にそんな事で?と内心驚いてました。
というのも、京都の現場ではそれを当たり前にやっていたからです。
その時に改めて、「京都の現場って、とんでもないんやなぁ」と再認識しました。
京都でやっている事は、超一流が舌を巻く程の事なんだなぁと・・・。

撮影の終盤近くに、50頭の馬が一直線に並び、幕府軍に特攻するシーンがありました。
現場は草原なのですが、敵方の大砲による爆破が至るところで起こるのです。
テストで見た爆破では、土の固まりが15mほど打ちあがる凶悪な仕掛けでした。
最初は15発くらいで、爆破箇所に旗を立てていたのですが、回を重ねる毎に多くなり最終的には40発近かったのではないかと思われ、そのうち旗が立つ事もなくなりました。
どこにどのタイミングで爆発が起こるか?全く分からないのです。
爆破で飛んでくる土の固まりは、ほぼ凶器です。
何回目かの本番前、馬に跨り待機してると仲間が寄ってきて、聞くんです。
「辻本さん、なんで笑ってるんですか?怖くないんですか?」
笑ってる意識はなく、ニヤついてた気もないので、びっくりしたんですが、彼にはそう見えたようです。
そん時は「またココに突っ込んでくんか、大変やなぁ」ってな事を考えてました。

準備が整い、本番が始まります。
一斉に駆け出し、ながらも横一列を意識しながら手綱をしぼります。
そこら中で爆破が起こり、現場のテンションは天井知らずで上がっていきます!
そんな中、左のアブミが何かに引っ掛かりました。
見たら横を走るカナダのスタントマンのアブミに絡まってました。
⽬で合図を送り「⾺を出せ︕」と伝えます。
彼は逆に手綱をしぼり「馬を止めろ!」と伝えてきます。
「アホか!ここで止めたらNGやろが!ええから出せ!!」
「アカン、危ない!2人で落っこちるぞ!」
「四の五のぬかすな!現にお前の馬は遅れてるなやないか!鞭入れろ!」
「アカン、止めろ!」
多分、そんなやり取りだったと思います。なんせアイコンタクトなので。

僕の左足はひきづられ、彼の右足は引っ張られ、2人ともありえない体勢で今にもどちらかが落ちそうだった時に幸運にもアブミは外れ、散々な体勢で走り切りました。
もう、頭にきて、すぐ様馬首を返し彼を睨みつけました。
その彼も怒り心頭だったのでしょう、物凄い形相で俺を睨んでます。
そりゃそうです。一歩間違えば死んでるんですから。
向こうもやる気満々です。こっちも望むところでした。
お互い視線を反らす事もなく、馬は一歩二歩と進み距離はどんどん近づいていきます。
なのですが・・・ふいに笑いが込み上げてきて、向こうも同じようなタイミングで顔が緩みだし、馬首が擦れ違う頃には2人で爆笑してました。
「なんやお前のあの体勢?マヌケやったわー」
「お前も、なんか寝そべって走ってたやん」
「お前が引っ張るからや」
「絡まったもんはしゃぁないやろ?」
お互い言葉はわからんのでジェスチャーでそんな事を、やり取りしてました。
「まぁ、無事でよかった。ケガないか?」
「大丈夫や。お前も大丈夫か?」
「おう、まぁな」
そんな事で、お互い笑い合い、次のカットのスタンバイに向かいました。
なんていうか、僕らにしか分からない笑う瞬間があって、そういう瞬間を共有できる仲間がいるって事は凄く幸せな事だと思います。
アクションやスタントは個人プレーですが、どっかでチームプレイでもあって・・・そんな瞬間がたまらなく愛おしいです。
僕は、そんな僕らの事を「アドレナリン・ジャンキー」と呼んでます。もうやみつきです。

落馬のスタントをした時には、スイスのスタントマンが俺の事を「ファッキンスタントマン」と呼ぶのです。
初めは聞き間違いかと思ってたのですが、顔を合わす度に「ファッキンスタントマン」って言うもんやから、腹がっ立ってきて、通訳を従えて文句を言いにいったんです。
「ファッキンってどういう意味や!お前!バカにしてんのか?」と。
彼が言うのを通訳すると、「ファッキンてのはスラングで、最大の誉め言葉として使ってるんです」と。
そん時はバツが悪かったですね。

仕事で、空中ブランコもやりました。
サーカスのミュージカルの主役で、 歌って踊るんです、この僕が。
初めのうちは怖くて、本番中は生きた心地がしませんでした。
ブランコがスタンバイされてる鉄柱に梯子で昇っていくのですが、一段一段死刑台に昇っていくような気分でした。
結局半年ほど務めたのですが、最後まで慣れる事はなかったですね。
次の主役にバトンタッチして、僕はその舞台を降りたのですが、1月程後に事務所から電話があり・・・、
「主役が逃げた。辻本、もう一回やってくれへんか?」って言われた時は血の気が引きました。
断りきれず「分かりました」と電話を切ったのですが、その直後に体が震えだしたのを、今でも覚えてます。

モンゴルでやった⼈⾺転倒も忘れられないですね。
その作品では、役で⼊ってたのでスタントに参加する予定は無かったのですが、中村健⼈さん(その作品のアクション監督)が「辻、⼈⾺転倒やってくれへん か︖」って⾔うてきて、俺は⼀も⼆もなく「願ってもない︕やります︕」と答えました。
というのも、現場にはモンゴルのプレーヤーも数多く参加していて、彼らは馬の扱いには長けていたんです。
だから、日本人よりも彼らが活躍するカットの方が多かったのです。
僕はその事が密かに気に入らず・・・そんな矢先の事でした。
そのカットは⼀発OKで⽇本側の⾯⽬躍如になって良かったのですが、印象的だったのだはその後です。
その撮影では、持ち馬を一頭与えられるのです。
必ずその馬に乗る。人馬転倒もその馬でした。
でも馬自体はモンゴルの馬で撮影用に調教などされおらず、馬自体も人馬転倒などやった事などあるわけもなく、お互い初めてのスタントでした。

終わってから、馬を労ってあげようと思って近づくと、馬の方からすり寄ってくるのです。
「怖かった、なんであんな事さしたん?」と甘えられてるようでした。
小一時間程でしたか、僕は馬の前に背中を向けて座り、馬は僕の肩にしなだれかかりながら、なんか仲直りした時のカップルのような空気感で、結局は僕の独り言なのですが、ずっと語り合ってましたね。
モンゴルの撮影で使った馬は、冬を越せずに死ぬだろうってのが、ホースチームの意見でした。
本来、撮影をやってる今の時期に、馬たちは冬を越すために体に脂肪を蓄えるのだそうです。
だからきっとその子も冬は越せず・・・その後、モンゴルで買った小さな馬の置物は、今でも僕のPCの前に飾ってあります。

今や無くてはならないモーションキャプチャーですが、そのモデルを初めてやった日本人は僕らしいです。
当時、日本にその設備はなくロスまで行って撮影してました。
畳一畳分くらいのアクティングエリアで、背中になんか背負ってコードが色々出ていてと。
その話を、後にキャプチャースタジオでしたら、そこのスタッフがそう言ってました。
当時は、驚くほど自由が効かず、制約も多かったので、こんなに発達するとは夢にも思いませんでしたね。
真っ暗な倉庫の中で、拘束具のような状態のものを体に着けられ、パンチやキックを1人で繰り出し、、その項目が何百とあり、来る日も来る日も1人上手みたいな感じで、何が正解かも分からずに四苦八苦でした。
10日間程の撮影期間だったと思うのですが、ホテルと倉庫の往復で、せっかくの海外を一つも満喫できませんでした。

そんな僕を救ってくれたのが、吉野家の牛丼でした。
昼食夜食と、毎日デリバリーで、たまの外食に行くも量は多いは、味は濃いはで相当まいっていて。
日本食に連れていかれるも、これじゃない感が壮絶で、困り果ててたのですが、ある日の夕飯に「beef bowl」なるヘンテコリンなものが出てきて、溜息まじりに食べ始めたら・・・「!?」
タイ米のような長細い米ではあるものの、紛れもなく日本の吉野家の牛丼!
アメリカに来て初めて「美味い!」って言うたような気がします。
不思議と体から熱が湧き出す感覚があったんですね。何かが行き届いていく感覚が。
食事って大事やなぁと。吉野家の牛丼のおかげで僕は息を吹き返しましたね。

 

—–経験豊富で、ハリウッド作品にも出演されたわけですが、あえて俳優人生で「最も感動」した事と言えば、どんな事が思い出されますか?

 

辻本:真っ先に頭を過ったのは、初仕事の映画「激突」のエンドロールですね。
当時は梅田東映って映画館で舞台挨拶があり、僕も登壇し、その後客席の後ろで本編を見ましたが、エンドロールに自分の名前が上がってきた時は、込み上げるものがありました。
そういえば「里見八犬伝」を見たのも梅田東映でした。
そう思うと、この仕事を志した場所で、明確な一歩を刻んだって事になるのでしょうかね。

甲乙つけ難いですが、いや、こっちの方が上かな?
真田さんにお会いする時は、毎回感動し、この仕事をしてて良かったと心底思います。
初めてお会いしたのは、JAC時代の馬合宿の時でしょうか?
遠目で見た時は全身の毛が逆立つ感覚でした。
ラストサムライでも撮影後に真⽥さんと出くわして、「なかなか良かったぜよ。」と⾔ってくださってんですが・・・。
あまりに唐突な 出来事に素っ気ない返事しかできず、相当落ち込みました。
後に思い出し「…なんで⼟佐弁やねん。」と呟くようにツッコミながらも、小躍りするほど嬉しかったです。

 

—–失敗談をお聞きしたいのですが?

 

辻本:初仕事の「激突」って映画のとあるカットで、50テイク程NGを出した事があります。
いっそ殺してくれって思いましたね。(笑)
京都時代には、一度だけ「水戸黄門」で女優さんの吹替をやった事があり・・・。
トランポリンで蹴るカットなんですが、その衣装が忍者装束で網タイツなんですね。この太ももに網タイツなわけです。
それを見た女優さんの表情は、曇りまくってるわけです。あんな落胆した表情みたことないですよ!
網タイツを履いた⾜を振り上げながら、内⼼では「ごめんなさい」を連呼してました。

とある舞台で、浦島太郎役として立ち回りがありました。
漫画の「ワンピース」が注目され始めていて、僕の獲物はゾロと同じく「三刀流」だったわけです。
勿論、誰も未だにやった事がない。
両手と口に刀です。殺陣師も「日本初やろなぁ」と稽古場で満足気でした。
その公演は本番が一度きりのスケジュールで二回目はない舞台でした。
その本番、ラス立で、僕はその3本の刀を忘れて舞台に登場しました。
無いと気付いた瞬間、引っ込みました。袖を探しても見当たらなかったので、そのまま再登場。
結局、無手のまま、その三刀流の殺陣をやりきりました。

今でも覚えてます・・・次の手を何で受けるか、ぶっつけ本番の一発勝負。
かかってくる2人の刀がスローモーションの如く見え、後に僕はそれが「ZONE」であると知りました。
口に加えた刀で、刀を止める手もあります。頭突きでしのぎました。
慌てふためいたのは、僕にかかってくる2人です。
「刀がない!?どうすんねん、コレ?もう知らん、いったっれ!」と思ったらしいです。
刀の効果音をスタンバってた殺陣師は「辻、刀持ってへんやん!?殴りの効果音どれやっけ?」ファインプレーでした。
斬られて引っ込み、袖で突っ伏しました。
帰ってきた2人に平謝りです。
「すんませんでしたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
2人は爆笑してました。
「どないすんのかと思ってやぶれかぶれやったけど、ようやったなぁ」
むしろ褒めてもらいました。余計に辛かったです。

どれが⼀番の失敗談かなあ・・・。やっぱ「三⼑流」やなぁ。

 

—–これからの抱負など、お聞かせください。

辻本:後進を育てる事が、今後の抱負ですかね。
色んな所で教えた生徒達が、将来の時代殺陣の礎を支えてくれるのが、講師としての僕の夢です。
俳優としては「人斬り以蔵」をやりたいですね。
勝手な思い込みかもしれませんが「人を斬ることでしか自分の存在を証明できなかった男」って印象があり、時代殺陣に傾倒していった自分と何かがリンクしている気がします。
後はまぁ、生意気なのを承知で言いますが、養成所の卒業公演の演出を引き継がねばなぁと。
今は副社長がやってくださってるのですが、いつかは誰かがバトンを受け取らねばと。
別に僕じゃなくてもいいのですが、現状、そんな事を考えてるのは僕くらいなのかな、と。
全く未知の領域で、「やる」と「出来る」は大違いだし、関わる人間も多いので、そう容易い事でもないのですが。

最近、常に頭に描いてる目標はあるのですが、やり方も分からんし、何をもって達成とするのかも謎なので明言は避けたいと思います。
同業者でもなければ、同年代でもないのです。
そんなものを目標に掲げてるのを俺自身でさえ呆れてしまうので、内緒にしておきます。
ですが、達成する気でいるし、達成できた時に告白したいと思います。

 

—–本日は濃密なお話、大変ありがとうございました。

辻本:こちらこそ!
インタビューをきっかけに、思い返すと楽しい想い出ばかりで・・・。
そんな機会を与えてくれた「推しメン・インタビュー」に感謝ですね。