51期メンバー 大塚優希
【プロフィール】
名前:大塚優希(おおつかゆうき)
所属:JAEプロモーション
所属期数:51期
誕生日:12月18日
出身地:埼玉県
趣味・特技:スキューバーダイビングCカード/日本漢字能力検定2級/実用英語技能検定2級/ピアノ/ダンス/歌/舞台鑑賞/史跡巡り
【主な出演作】
◆TV◆
2021年:『機界戦隊ゼンカイジャー』アクションクルー
◆舞台◆
2021年:板橋文化会館『JAE養成部第51期研修生 卒業公演』出演
【インタビュー】
—–大塚さんはご家族の影響もあって、幼いころから俳優になる夢を描いていらっしゃったそうですね。
その辺の経緯から教えていただけますか?
大塚:親の趣味が舞台鑑賞で、私は小さい頃から親に「大人になったら役者になりなさい!」と、事あるごとに言われていました。
親としては、そこまで本気だったわけではなかったようですが・・・。もはや擦り込みですね。
幼心に、「私は将来、役者になる!」と思っていました。(笑)
子供の頃から、よく観劇していたのは劇団四季でした。
そのため中学生までは、劇団四季の舞台に立つことが将来の夢でした。
高校生の時、初めてミュージカル「薄桜鬼」を観て、その後も他の舞台作品に出会う事で、それまで以上に舞台の魅力や奥深さを知ることができたと思います。
「役者として舞台で演じ観客の皆さんを感動させるお仕事」を、本気で目指そうと決心した瞬間でした。
—–役者を目指した時に、数ある養成所や芸能プロダクションの中からJAEを選んだ理由を教えてください。
大塚:本気で役者を目指そうと決心してから私がまず始めた事は、自分が目指すフィールドで活躍している女優さんが、どのような経歴を持っているのか調べました。
次にその人たちと比較して、自分の武器にできそうなことは何かないか?と考え、「アクション」を磨こうと思いました。
JAEを知ったきっかけは、「薄桜鬼」と私の中で最も印象に残っている作品でもある「メサイア」という舞台です。
2つの作品にJAEの先輩方がアンサンブルとして出演されていて、そこでJAEの存在を知りました。
そして、仮面ライダー鎧武で佃井皆美さん(元JAE所属)を知り、佃井さんの舞台作品を観て、「この人のようになりたい!」と強く思い、その時点でJAEに入ることしか考えていませんでした。
大学に入ってすぐの頃に佃井さんのバスツアーがあって、その帰りには「大学卒業したらJAE受けようと思っています」と、本人に宣言した記憶があります。(笑)
—–本気で俳優を目指したいと周囲に伝えた際の、皆さんの反応はいかがでしたか?
大塚:昔から口癖のように「役者になる!」と言っていましたので、家族に反対されることはありませんでした。
養成部に合格してから聞いたのですが、母は若い頃JACに憧れていたらしく、私が養成部に入れたことがとても嬉しかったそうです。
友達は就活の最中でしたが、私が役者を目指していると打ち明けると、素直に応援してくれる人ばかりでした。
周りの人に恵まれているなと、心から思いました。
—–俳優という進路が決まり、次はJAE養成部のオーディション受験となるわけですが、当日を振り返ってみて、何か印象に残っている事はありますか?
大塚:オーディション直前まで、大学で所属していたミュージカルサークルの卒業公演があったので、準備らしいことは出来ませんでした。
オーディション当日は、すでに仲良さそうに話している人たちがいたり、空手の型を確認している人がいました。
私はそれまで、格闘技や正式にお芝居を学んだ経験がなかったので、「皆、すごくできる人たちなんだろうなぁ・・・。」と、会場ですごく不安になったのを覚えています。
オーディション終わりに友達とご飯を食べる約束をしていたのですが、食事中も緊張と不安が冷めやらずに、私が一方的に話していたと思います。
合格通知は、私が外出している時に家に届いたものを、母親が封筒の写真を撮って送ってくれて知りました。
大急ぎで帰宅して開封し合格を知りましたが、私以上に母親の方が緊張していたみたいで、すごく喜んでくれました。
—–養成部時代の思い出や、エピソードを教えてください。
大塚:入ってしばらくは、毎日が緊張の日々でした。
とにかくコーチが怖くて、、、。
同期とも、なかなか仲良くなれず不安でした。
養成所では、誰よりも早く支度をすること、誰よりもたくさん働くことを考えていました。
すると女子のリーダーに任命されて、コーチや同期から信頼してもらえたのかな?と、嬉しかったのを覚えています。
日々の授業で、見本になってくれる同期がたくさんいたことは大きかったです。
上手な人と仲良くなって、アドバイスをもらいやすい関係を築こうと必死でした。
そのためにもまず、自分が頑張ること!
そうしているうちに、コーチの指名で上手な人や先輩と組ませてもらえるようになりました。
それが嬉しくて嬉しくて・・・、そのポジションを誰にも譲らないという気持ちでより一層頑張れました。
一生懸命さと真摯さを大切に努力していれば、周りは見ていてくれるし、手を差し伸べてくれるということがわかりました。
そして、助けてくれる周りへの感謝を忘れてはいけないな、とも思いました。
スキューバ合宿の時は、コーチにすごく怒られて、、、。
4日中3日は怒られていたのですが、礼儀や周りへの配慮の大切さを痛感した合宿でした。
3日目の夜に反省会をして、その後、夜中の2時まで4人で雑談していたのですが、同期やこれからのことに対しての真面目な話から、くだらない話までいろんな話ができて、ここで急激に仲良くなれた気がします。
これ以降は同期との絆が深まって、毎回の授業の後は、終電まで公園で話し込むようになりました。
—–大塚さんが楽しかった科目、逆に苦しかった、あるいは不得意な科目はなんでしたか?
大塚:楽しいと感じて練習できたのは、時代殺陣です。
もともと日本史や時代物の舞台が好きだったこともあり、刀を持てるというだけで何もかもが楽しかったです。
基礎訓練は辛いものも多かったですが、、、。卒業公演でたくさん芯をやらせていただけて嬉しかったです。
苦手意識が強いのは現代アクション。
でも、卒業公演で私が憧れていた同期のメンバーとアクロバット隊で立ち回りをやらせてもらえて、少し自信がつきました。
前向きに現代アクションと向き合えるようになったのは、このパートがあったからです。
女子より男子と練習することの方が多かったですし、男子と同じメニューの筋トレを行う事もありました。
でも、その経験があり、ここまで成長することができたと思っています。
コーチをはじめ、講師の方々のおかげだと思います。
—–今、改めて思い返してみて、養成部とは大塚さんにとってどんなところでしたか?
大塚:JAE養成部は私にとって、本当に楽しくてキラキラした場所でした。
稽古は辛いこともありましたし、朝は嫌だなと思うこともありましたが、やりたいことを学べるということはとても楽しくて、授業が始まれば嫌な気持ちなんてありませんでした。
後期の授業では、とにかく同期に会いたくて、土日なんていらないと思うほど、毎日、練習に行くのが楽しみでした。
同期に会える、コーチに会える、先生方に会える、先輩に会えると、それを楽しみだと思えたのは、良い人に囲まれていたからだと思います。
辛い、しんどいと聞いていた養成部を「楽しかった!」と卒業できたのは、周りの方々のおかげです。ありがとうございました!
—–ここからは、大塚さんの子供時代をご紹介いただけますか?
まずは、幼少期から小学校時代は、どんな女の子だったのでしょうか?
大塚:小さい頃は、細くて小さくてよく転ぶ子供だったらしいです。(笑)
幼少期の写真を見ると、可愛らしい服を着せられた男の子に見えます。
幼稚園では、晴れている日は外で鉄棒、雲梯、一輪車、木登り。雨の日は、部屋で工作をしていました。
工作は、お菓子の箱で遊園地を作ってみたり、結構大掛かりなものを作っていました。
両親がDIYをする人だったので、それを手伝ったりもしていて、ものを作るということが好きだったように思います。
友達とくらべると、運動神経は良かったほうではないかと・・・。
でもドジだったので、怪我も多かったようです。
幼稚園の頃から、エレクトーンとバレエを習っていました。
性格は、周りから面倒を見てもらう妹気質。
でも、人の世話を焼きたがる子でもありました。
私自身一人っ子だったので、兄弟というものに憧れていたんだと思います。
通っていた小学校は、畑に囲まれた、自然豊かな学校でした。
帰り道では、近所の農家さんが筍を掘らせてくれたり、授業の一環で畑を借りて、「陸稲」というお米を育てたりしていました。
成績は我ながら、良かったと思います。通知表もほとんど「よくできました」だったような。
唯一、整理整頓だけ「頑張りましょう」を取るような子供でした。
マット運動が好きで、六年生になる時に同級生の子たちと一緒に新しく「体操クラブ」を作って活動していました。
鉄棒がやたら多い学校だったので、休み時間はほとんど鉄棒をしていた記憶があります。
朝読書の時間は、「ドラゴンボール」の漫画に小説のカバーをつけて読んでいました。(笑)
習い事も増えて、ピアノ・エレクトーン・バレエをベースに、ミュージカルや水泳も少しではありますが習っていました。
学校で代々歌い継がれている「三富おろし」という曲があって、六年生を送る会で六年生から五年生へ演奏の引き継ぎが行われるのですが、そこで寸劇をして、※柳沢吉保を演じました。
当時は「すごい人」ということしか理解していませんでしたが、今では彼の功績や人物像を知り「尊敬する人物は?」と聞かれて真っ先に柳沢吉保と答えるようになりました。
※柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもある。
—–中学、高校時代はいかがでしたか?
大塚:中学時代は、半年間バレーボール部に入ってひたすら筋トレや体力トレーニングをしていました。
その後は吹奏楽部で、トランペットを吹いていました。学生指揮者も少しやって、楽しい部活でした。
体育委員もやりました。生活指導、特に服装についてとても厳しくしていました。
シャツ出ししてる人を怒って追いかけ回したり、、、。校則違反をしている人を見ると、どうしても許せなくて。
英語の授業が得意で、スピーチコンテストに出たことがあります。
熱中したのは、「薄桜鬼」という新選組が題材の乙女ゲームのアニメでした。
友達に勧められたのがきっかけで知ったのですが、ここから声優と日本史に興味を持つようになりました。
高校は、中学からの吹奏楽を続けようと思って選んだ学校でした。
ところがはずみで、体操部に入部していました!(笑)
ほぼ全員が高校から体操を始めたような弱小部活でしたが、部長として活動しました。
一年生の冬、アメリカに二週間ホームステイに行きました。
海外の文化に触れるだけでなく、クラスメイトや部活の仲間とは違うコミュニティに友達ができて、高校生活をより充実なものにできた気がします。
国語科教諭の担任の影響もあり「山月記」が大ブームで、私の性格の強さもあって「虎ちゃん」というあだ名がつきました。
この時から、虎がモチーフのものを見ると、つい欲しくなるようになりました。
高校二年生の時に、「戦国鍋」という番組に出会って、日本史好きに拍車がかかりました。
それと同時期に「薄桜鬼」のミュージカルや「メサイア」という舞台に出会い、舞台鑑賞が趣味になりました。
それまでも母親に劇団四季や宝塚には連れて行ってもらっていたのですが、「薄桜鬼」で初めて、自分のお金で舞台を観に行きました。
それからは、「薄桜鬼」に出ていた人が出る他の舞台、またそこに出てた人が出てる他の舞台、と、観劇回数が増えていきました。
三年生の時には、文化祭のクラス劇「銀河鉄道の夜」でジョバンニを演じました。
演じることの難しさと楽しさを感じると同時に、役者という夢を現実的な「目標」としてしっかりと設定したのがこの時でした。
—–高校卒業後、演劇の道には進まず大学に進学されましたよね?
大塚:高校の時点では、演技の専門学校に行きたかったのですが、親や担任に「大学には行った方がいい」と言われて、せめて演劇学科があるところと思い、また、演劇研究会に入りたいという気持ちで早稲田大学に決めました。
大学に入ったことで、視野が広がったり、物事を考える力が養われたと思っているので、大学を勧めてくれたことに感謝しています。
実際には、演劇研究会には入らず「オムニバス」というミュージカルサークルに所属して、4年間ミュージカルをやってきました。
ブロードウェイなどで上演されている作品を翻訳して上演したり、オリジナル作品を上演したり、他のサークルとコラボしたり、様々な経験ができました。歌詞を日本語に直したり、振り付けを考えるのが本当に難しかったです。
4年生の時に、文化祭でサークルの代表を務めました。
半年前からサークル内の話し合いや、外部の団体と打ち合わせ、稽古の進行など、同期と協力しながら作り上げたステージは、一生忘れられないものになりました。
演劇学科だったので(実技ではなく演劇の研究をしていました。)、祭り、歌舞伎や能などの伝統芸能から現代演劇、ミュージカル、シェイクスピアなどの西洋演劇など、授業としても様々な作品に触れてきました。ある授業で他の生徒が「梅棒」という団体を紹介していて、今では私の大好きな劇団です。
大学時代は観劇回数が増え、4年間で150演目以上観劇していました。
アルバイトで稼いだお金はほぼ全てチケット代に消えていました。
地方公演に行った時は、もう一つの趣味である史跡巡りもできて、とても充実していました。
一年生の時に劇場でアルバイトを始めて、そこでもたくさんの作品に出会うことができました。
授業を受けているか、サークル活動をしているか、アルバイトしているか、観劇しているか、という、演劇三昧の四年間でした。
演劇の授業のほかは、哲学やジェンダーについての授業が好きで、必然的に難しい内容の舞台作品が見ることも増えていきました。
4年生の時に、大学の行事の一つである「100キロハイク」というものに参加しました。
本庄早稲田から早稲田の本キャンパスまで2日かけて100キロ歩くというものなのですが、歩ききった達成感は別格ですが、後にも先にもこれ以上辛い二日間はありませんでした。
大学の周りに油そば屋が多いこともあり、まんまと油そばにはまりました。1日2回食べることもありました。いまだに定期的に食べに行ってしまいます。
—–それでは最後になりますが、今後の目標や豊富などをお聞かせください。
大塚:「佃井皆美さんのようになる!」
彼女に認めてもらえるような役者になるのが、今の一番の目標です。
初年度からプロモーション部に入る事ができて、目指している役者像に1歩、近づくことができました。
こうして機会を設けていただけたことに、しっかり恩返ししていきたいと思います。
尊敬する演出家さんたちに望まれるような役者、自分が今まで見てきた役者さんたちを逆に感動させられるような、その人たちにとって何かプラスになるような役者になりたいです。
歌もダンスも、まだ「好き」のレベルなので、「得意」と言えるように技術を磨いて、ミュージカルに出演したいです。
「51期はスゴイ!」って、言われるようになりたいです。
5年後とか10年後に、51期イベントをやれたらいいなって、同期とたまに話しています。
その夢を実現できるように、頑張ります!
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